戸隠流・豆辞典

戸隠流忍術の由来

忍術はもともと修験道の影響を受けたものとされています。戸隠山は、天武天皇のころ(西暦678年)、役小角(えんのおずぬ)によって修験道場が開かれ、多くの山伏たちが荒行を重ねてきました。近くの飯縄山では修験者たちが「飯縄の法」という魔法を編み出し、鎌倉末期にはこの秘伝を伝える子孫が千日太夫と名乗り、この魔法を行いました。戦国武将の武田信玄と上杉謙信は、ともにこの法力を信じたことで知られています。

忍術のもとである修験道と戸隠という土地は密接な関係があったのです。しかし、「戸隠流忍術」のルーツとしては、八〇〇年前に遡ります。

ときは養和元年(1181)、木曾義仲(きそよしなか)は、平家軍と一戦を交えました。その戦いの際に、義仲の家臣として加わったのが仁科大助(にしなだいすけ)です。大助は、古くから戸隠や飯綱で修験道の修行をして、さまざまな技を身につけていました。そして、寿永三年(1184)、義仲が討ち死にしたあと、伊賀に逃れて、さらにそこで伊賀流忍術を習得してから、戸隠の地にふたたび戻って、戸隠流忍術を開きました。別名、戸隠大助と呼ばれる彼こそ、戸隠流の開祖です。

戸隠流忍術は、開祖以来、脈々と受け継がれ、いまは初見良昭先生が三四代目の宗家となります。忍術と言えば、伊賀流、甲賀流が有名ではありますが、古武道としてその技が伝承されているのは戸隠流だけです。

その特徴

忍者というと、手裏剣を投げたり、背中から刀を抜いたり、そういう戦闘シーンがまっさきに浮かびます。しかし、戸隠流は、攻撃を目的とせず、守りを重んじた守備の武術です。身を守り、家族を守り、主君を守る。敵に相対しても、自分から攻撃を仕掛けずに、相手の戦闘能力を奪う。このような守りの技は、ひじょうに高度であり、厳しい修業をしなければ身につくものではありません。「武器を持たずとも敵を倒す」、これが戸隠流の極意であると言われています。

その使命

戦国時代までは、服部半蔵をはじめ、有名無名の忍者がたくさん活躍した黄金時代と言えます。彼らは、各地の戦国大名に雇われ、表舞台には現れない特殊な任務を遂行していました。江戸時代になると、各地の藩主に仕え、情報の収集が主な役割となりました。

その日常

戸隠の忍者は、ことあれば、各地の武将に雇われ、諜報部員として活躍し、また戸隠に戻って修業をするという繰り返し。しかし、各地に散らばっているときは、一般人とまったく変わらない生活をしていました。忍者であることを見破られたら、それこそ忍者失格ですから。

その修練

毎日、一二〇から一五〇キロメートル歩く。高下駄で水の上を走る。水桶四個を天秤棒で担いで走る。木の幹を駆け上がる。この四つの訓練が戸隠流の基本。さらに体術、剣法、槍、棒術、飛鳥の術など高度な技をたくさん修行しつつ、天文学、数学、火薬、医学などの勉強もしなければなりません。一人前の忍者とは、体力だけではなく、知力も身につけた、いわゆる文武両道の達人なのです。

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忍者豆知識

忍者と言われた人々

■役小角(えんのおづぬ)

飛鳥時代、日本独自の山岳信仰である修験道をつくった人。呪術の名人でもあり、のちの忍術に影響を与えたと言われています。

■源義経(みなもとのよしつね)

船を次から次へと渡る「八艘とび」をはじめ、人の目をあざむく変装術とか、まるで忍者のような活躍で知られています。

■楠木正成(くすのきまさしげ)

南北朝時代の武将、正成には伊賀忍者四八人が仕えていたそうです。楠木流忍術の書物も残されています。

■風魔小太郎(ふうまこたろう)

戦国時代、小田原北条氏に仕えた風魔忍者の頭領。箱根足柄山中の出身と言われ、謎の多い人物です。

■石川五右衛門(いしかわごえもん)

安土桃山時代。天下の大泥棒、五右衛門は伊賀流忍術の名人である百地三太夫の弟子であったそうです。

■服部半蔵(はっとりはんぞう)

徳川家康に仕えた有名な伊賀の忍者。今も残る半蔵門は、半蔵がまもったことからつけられた地名です。

■松尾芭蕉(まつおばしょう)

芭蕉は、「奥の細道」で長い距離を一日で歩いたり、また伊賀の出身であることから、実は忍者では、との噂があります。




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